3月28日(木)

 中国の古典「『荘子』の中の一節です。

 「畑を作ろうと老人が苦労して井戸から水を汲んでいる。井戸の底に降りて行って瓶に水を入れ、抱きかかえて上にあがってくることを繰り返していた。そこに通りかかった人が、いい機械(はねつるべ)があるからお使いなさいと勧める。それに対する老人の答えは機械を使ったら、使ったがゆえの仕事が必ず生じてしまう(そういう仕事を『 機事』と老人は呼ぶ)。そして機事にかかわずらっていれば、何事も楽にやろうと必ず心まで影響される。そうなってしまった心を老人は『機心』と呼ぶのである。(機械を有する者は必ず機事あり。機事有る者は必ず機心有り。『荘子』天地篇12)」


 現代は確かにコンピュータができて便利になりましたが、その分失われたものが多いと感じます。学習面においてもタブレットなどの使用により、板書を写す必要がなくなったり、辞書をひくこともせず、漢字の練習もしないというひともいるようです。

 塾に通っている生徒も、とにかく字がまともではない人が目立ちます。時の丁寧さが成績に応じたものになっています。以前は成績が振るわなくてもきちんと正しい字を書く子供が少なからずいました。しかし、現状は正しくきちんと字を書く子供は、やはり文章もきちんと読むことができます。自分の手で書き、自分の頭で考えるという学習の基本姿勢ができているからでしょう。

 時代遅れのやり方で結構です。青林塾では小学生には毎週漢字練習とテストを実施し、いい加減な字は誤答として書きなおすという作業をさせます。

学習の基本は「読む」「書く」以外にはありません。今のようにICT機器で小手先の満足を得ている者は、後悔する日が来るのではないでしょうか。

 

2月8日

 作者が友人に贈った詩の一節です。

 漢詩の中にはこうした内容のものが非常に多く、心に沁み入ります。

 こうした文学や文章を現代の国語教育は忘れてしまったのでしょうか。

 夏目漱石の「こころ」、森鴎外の「舞姫」といった作品をわずか5,6時間の授業で終わらせて、試験で点数さえとればそれでいい-という考え方は間違っています。

 文学作品を避ける国語教育など最も恥ずべきことです。

 

 

1月30日(火)

 アメリカの小学校で筆記体の指導が義務化されるというニュースを見ました。筆記体で書くことで明らかに脳を活性化できることがわかったのだそうです。遅すぎるような気もしますが、すぐに義務化するというのはたいへん結構なことです。今の日本の文字指導を考えると羨ましくさえあります。 

 私の中学校時代は筆記体で書くことが当たり前でしたが、ずい分前から学ばなくなりました。そしてそのころから文字がだんだん雑になってきたと思います。

 国語の世界でも以前は「トメ」「ハネ」を厳しく見たり、線の長短を指摘してきましたが、そういうことが曖昧でもよくなり、形が合っていれば正解とされてしまうことになったと思います。例えば「未」と「末」では上下のどちらが長いかで全く違ってしまうのに、そんなことすらも曖昧にしているのです。

 文字を正しく書く。まずは大きく書く。そして濃く書く。それが文字指導の根幹だと考えます。

 国語学習の第一歩はそこから始まります。それをないがしろにしている人はざれだけやっても国語のできる人にはなりません。当たり前のことです。